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福田淳の学歴・経歴がぶっ飛んでる!超優秀な高校から最強マーケターに!結婚して子供も!

のんさんがエージェント契約を結んでいる株式会社スピーディ。

この株式会社スピーディの創業者で代表取締役を務めているのが福田淳(ふくだ あつし)さん。

福田淳さんは、旧ジャニーズ事務所の新会社の社長に就任されることが確実視されていると報道されており、注目を集めています。

そんな福田淳さんですが、その半生は中学高校時代のエピソードや大学進学のエピソード、社会人になってからの経歴が相当ぶっ飛んでいます。

もちろん良い意味で。

本記事では、ネット上の記事では触れられていない驚きのエピソードについてお伝えしていこうと思います。

福田淳のwikiプロフィール

福田淳さんのwiki風プロフィールをご紹介します。

プロフィール

  • 名前:福田淳(ふくだ あつし)
  • 生年月日:1965年7月26日
  • 年齢:58歳(2023年10月現在)
  • 出身地:大阪府高槻市
  • 最終学歴:日本大学芸術学部卒
  • 肩書:株式会社スピーディ代表取締役

福田淳の学歴(中学、高校、大学)

福田淳さんの学歴についてまとめていきたいと思います。

中学高校時代から、その優秀さやハンパない行動力で自身の未来を切り拓いています。

医者志望の多い超優秀な中高一貫出身!

福田淳さんが卒業した中学、高校は、医者志望の多い中高一貫の学校

同級生は医者志望や親が医者の人が多く、京都大学や大阪大学に進学するのが当たり前といった雰囲気だったようです。

学校は男子校で、京大や大阪大への進学者数がトップクラスだったと語っていました。

幼少期から超優秀だったことがうかがえますね。

放送部で異例の中学生部長!

福田淳さんは、当時からエンターテイメントが好きで、ラジオドラマを作りたかったそうです。

そういった経緯もあり、放送部に入部します。

放送部では通常、高校1年生くらいが部長になるらしいのですが、なんと福田淳さんは中学3年で部長に抜擢されます。

当時からエネルギーがハンパなかったのですね。

給食の時間の放送や運動会の放送に革命をもたらす!

福田淳さんが中学生の頃は、YMOなどが全盛の時代。

当時、給食の時間はクラシックを流していたようですが、放送部だった福田淳さんは果敢にもYMOなどの流行曲を流したそうです。

これには先生たちも驚き、福田さんを呼び出したそう。

ただ、ここでも福田さんが伝説を作ります。

先生を論破してしまうのです!

「音楽の定義って何ですか?」

「クラシックじゃないといけない理由は何ですか?」

当時から頭の柔軟さ、回転の速さが際立っていたようです。

さらに、運動会では友人から映画「ロッキー」のテーマ曲を流すようにお願いされます。

しかし、当時はまだロッキーのテーマ曲は定番化する前。

ただ流すだけではつまらないだろうと思った福田さんは、倍速で流すことを思いつきます。

この結果、陸上の短距離出身だった友人からも大好評だったらしく、スポーツと音楽の関係性などについてその友人から語られたそうです。

自作のラジオドラマがラジオ局で放送される!

自作したラジオドラマを放送局で流してほしいと思い、近所のラジオ局に売り込みに行ったそうです。

当時、福田淳さんは中学生

中学生がラジオ局に売り込んできたということもあって、ラジオ局も快諾し、放送してくれたそうです。

中学時代から行動力がハンパなかったのですね!

自作映画が有名監督に認められ、映画撮影資金を獲得!

高校では8ミリフィルムのビデオを購入し、友人たちと映画撮影にハマります。

映画の編集も福田さん自身が行っていたため、編集技術がどんどん向上していったそうです。

さらに、ここまでして作った映画を世の中にも認めてほしいと思い、驚きの行動に出ます。

当時、監督年鑑という本には日本の映画監督の住所や連絡先が載っていたということで、休みの日に東京に行き、有名監督の自宅に自作した映画を売り込みに行ったそうです。

その結果、ある有名監督から気に入られ、30万円という大金をもらい、16ミリフィルムで映画を撮るように指示されます。

当時、16ミリフィルムは大人しか扱えない代物でした。

しかし、高校1年だった福田淳さんは16ミリフィルムでの映画撮影に挑戦します。

結果的には、撮影した映画は上手くいかなかったそうですが、映画撮影についてかなりの技術と経験を得たのでした。

大学は教師の猛反対の末、日本大学藝術学部へ

受験シーズンになり、福田淳さんは「映画監督になりたい!」と日本大学藝術学部への進学を希望します。

しかし、通っていた高校は医者を目指すのが当たり前の学校。

先生からは

「浪人してでも大阪大学を目指せ!」

と言われたそうです。

なかなか内申書にハンコを押してくれない先生に、ついには福田淳さんの父親が”激おこ”し、学校に乗り込んで先生を説得してくれたそう。

そういったすったもんだの末、無事、日本大学への進学を果たします。

演劇に目覚め、マーケターとしての才能を開花!

中学でラジオ、高校で映画を極めていた福田淳さんは、日本大学で演劇に注力します。

ここで、本人も予想していなかった才能が開花します。

当時、大学の演劇を観賞していたのは出演者の友人や親戚くらい。

演劇に貧乏で儲からないというイメージを持っていた福田さんは、単価を爆上げすることを提案します。

当時はチケット1枚を300円で売っていましたが、福田さんはこれを3000円で売りました

その結果、黒字化に成功。

さらに黒字になったことで、演劇に対する口コミも良くなり、それが呼び水となって新規の客が増え、売り上げは右肩上がりだったそうです。

この時、福田さんは自身がマーケターであることを実感したそうです。

福田淳の経歴

福田淳さんは、新卒で東北新社へ入社しています。

異例の昇進スピードで20代で部長になると、突然のクビ宣告が待っていました。

その後はUSEN、ソニーピクチャーズへと籍を移し、ソニー時代に女優ののんさんと出会い、芸能の世界へと入っていきます。

東北新社へ入社した理由は彼女!

福田淳さんが新卒採用試験で内定をもらっていたのは、2社でした。

1社は東北新社で、もう1社が関西のテレビ局。

テレビ局の初任給が倍以上も高いという状況でしたが、なんと福田さんは東北新社への入社を決めます。

理由は、当時付き合っていた彼女が東京にいたため

お金よりも彼女を優先したのでした。

衛星放送のテレビ局立ち上げに世界を奔走!

東北新社に入社後は、宮沢りえさんの「ぼくらの17日間戦争」の助監督も経験したそうです。

さらに、社長の方針で、CM作成だけでなくテレビ局も作るということになり、福田さんは数々のチャンネル制作に関わります。

有名なところでは、スターチャンネルやプレイボーイチャンネルなど。

テレビ局を作るために上司のかばん持ちで世界中を回り、当時の郵政省とのやり取りでテレビ局の免許取得に関する業務も経験。

28歳で東北新社の部長とスターチャンネルの営業部長を兼任するまでになったそうです。

経営者の息子(常務)から突然のクビ宣告!

しかし、順風満帆なキャリアも長くは続きませんでした。

経営者の息子で常務とそりが合わなかったのです。

常務はプレイボーイチャンネルの好調さから、より手広くアダルトチャンネルをやりたいと提案します。

しかし、福田さんはそれを厳しく否定したそうです。

しかも極め付きとして「自分の方が常務に適任だから辞めた方がいい」とまで言ってしまったそう。

とうとう常務の堪忍袋の緒が切れたようで、突然の「クビ宣告」

翌日から福田淳さんは東北新社に行くことはなかったようです。

USENの社長から破格の待遇を受ける

突然のクビから約2年が経った頃、大阪USENの創業者で中国人の経営者から驚きの提案を受けます。

「うちの子供の子守を週1回来てやってくれ。100万円出す」と。

この破格の待遇に福田さんは快諾します。

もちろん、この待遇の背景にはUSENが敷設した回線を衛星回線にしたく、手伝ってほしいという意図がありました。

福田さんは、この事業も手伝いましたが、法令上、外国人がオーナーの会社には衛星回線の免許は出せない、ということになってしまったそう。

最終的に、USENでは2年ほどお世話になったそうです。

ソニーピクチャーズにヘッドハント!6事業部の責任者に!

1998年3月、ソニーピクチャーズにヘッドハントされます。

ソニーピクチャーズでは、今後半年間で8チャンネルを立ち上げるという事業計画だったそうで、新規事業開発の責任者として従事します。

福田さんは無事、半年間で8チャンネルの立ち上げに成功し、その功績が認められ、一時期6つの事業部の責任者として奔走したそうです。

ソニーデジタルエンターテイメントを立ち上げ!

1999年になるとiモード全盛の時代に突入します。

福田さんは、モバイルインターネットの将来性に魅力を感じ、年間1億円の損失を出さないことを条件に新規事業が採用されます。

これをきっかけに、ソニーピクチャーズモバイルという会社を日本とアメリカに設立し、社長に就任します。

しかし、iモード向けのコンテンツ制作では先行する他社に勝ち目がないと実感した福田さん。

ソニー本体のCFOに新たな事業を提案し、社内ベンチャーの制度で採用され、

2007年4月、ソニーデジタルエンターテイメントを立ち上げます。

第1の危機!初年度大赤字!

福田さんは、ソニー本体から7億円を出資してもらい、事業を始めますが、初年度に大赤字を出してしまいます。

iモードは1つ1つのコンテンツが小さく、大きいものを1つ当てないとダメだと悟ります。

そこで、「The world of GOLDEN EGGS」というアニメを作ります。

TBS

これが大ヒット!

おそらく知っている人も多いはず。

女性誌の表紙を飾ったりサントラが爆売れし、あの安室奈美恵さんも無償でいいから声優をさせてくれと言ってきたほど。

この結果、黒字に反転!

その後も黒字体質の経営に改善することに成功しました。

第2の危機!iPhoneの登場!

次の危機がiPhoneの登場でした。

iモードで作り上げたビジネスモデルが、iPhoneの登場で一気に崩れたのです。

天気予報や交通情報、音楽などが無料で提供される時代。

有料課金の時代は終わり、無料の時代になったと思い、次は広告モデルの時代だと考え、シフトチェンジします。

さらに、ソーシャルメディアの時代に突入。

多くのクライアント企業がソーシャルフレンドが欲しいということで、LINEスタンプを使ったメディアなどに参入。

SNS関連の業界でシェア1位に。

危機に直面しても常に考え続け、トレンドを俯瞰しながら新たなことに挑戦した結果、事業は危機を脱することができたのです。

女優のんとエージェント契約

2015年ごろ女優ののんさんと出会い、福田さんがたどった人生の苦難と同じ辛さを経験していたのんさんに共感し、エージェント契約を結びます。

その結果、芸能界にはびこる多くの圧力を受けるようになったそうです。

これがきっかけとなり、2017年11月、福田さんは20年在籍したソニーグループを辞職します。

ソニーグループ辞職後、世界旅行に!

ソニーグループを退職後は世界旅行に出かけます。

アメリカやヨーロッパ、ブラジルなどたくさんの国に住み、世界の広さを体感したそうです。

株式会社スピーディを創業

2016年9月、株式会社スピーディを創業。

創業時の資本金は1万円だったそうです。

しかし、タレントの管理やコミック関連の会社の買収、企業のブランドコンサルなどを柱として事業を進め、今まで銀行から借り入れることなく順調に経営できているそうです。

最近では、沖縄県にビラを建設したりと事業は多岐にわたっており、これからますます発展していきそうですね。

福田淳の家族構成

福田さんには奥様と子供がいます。

子供は娘がおり、女優ののんさんと同世代だそう。

また、都内に邸宅を構えており、幸せな家庭を築いているようです。

最後に

福田淳さんは、大変聡明で頭の回転も速く、会社経営やマーケティングに絶大な実績を持っています。

58歳という年齢にもかかわらず、エネルギーに溢れており、芸能界の悪しき文化などにも立ち向かう気概があります。

今後、本当にジャニーズ新会社の社長に就任された際には今まで以上の困難が待ち受けると思いますが、僭越ながら、ぜひ頑張っていただきたいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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